マルヤマ・デ・ブログ 幸せ
幸せとは本来、相対的に感じるものだと思う
戦時中に飢えで苦しむ毎日を過ごしていれば、
一杯の牛丼を食って幸せを感じられたとしても
平時に隣で寿司をたらふく食われてしまえば
毎日、一杯の牛丼では次第に虚しさを感じてくる
一杯の牛丼を食べる行為に違いがなかったとしても
相対で価値が変わってしまうのが幸せだと私は思う
他人の不幸は蜜の味と言うけれど
このように幸せとは「周囲」との比較において
自分の状況が恵まれているのか否かという点で判断されているのではないだろうか?
その時に「周囲」と各自で判断するものは個々によって全く違う。
自分と同じ稼ぎの人間を「周囲」と判断する人もいれば
自分と同じ母校の出身者を「周囲」とする人や
自分と同じ地域に住んでいるものを「周囲」とする人、
自分と同じ会社の人間を「周囲」とする人もいる。
何にしても「周囲」との比較において幸せは判断されているのだと私は思う
では、絶対的な幸せとはどのようなものであろう?
物に溢れ、金に溢れ、されど満たされない心の何かを埋めてくれる
そんな絶対的な幸せがあるとするならば、それは宗教だ。
宗教は絶対的な幸せを提示してくれる
誰かとの比較ではなく、明示された答えだ。
しかし、絶対的な幸せを突き詰めた結果、
他人を不幸にしてしまう人達がいる
幸せであるなら
何でもいい。
他人を不幸にする幸せでなければ、何でもいいと私は思う